日本で一番熱い街、熊谷で日々、鍼灸治療と耳ツボダイエットに取り組み、皆様に健康をお届けしている鍼灸院です。

【鍼灸博物館】

  • はり・きゅうの発祥

    「はり・きゅう」を解説した最も古い書物に「黄帝内径」(こうていだいけい)といものがあります。これは舜,夏,商,周という歴史の教科書にはまだ載っていない時代に編集されたものとされています。この書物は黄帝という(伝説上の)皇帝が岐伯など何人かの学者と日常の疑問をやりとりするという対話形式で話が進んでいくもので、その後の多くの鍼灸、漢方についての書物の原本となります。

    ちなみに、今、「漢方」と書いたのですが、「漢方」とは正確には中国から入った薬学体系を日本式にアレンジして江戸時代に体系化されたものを指す場合と、現在の理論体系が中国の「漢」の時代に出来たので、それを意味して「漢方医学」と使われる場合があるようです。

    記録が残っている鍼灸の歴史は「黄帝内経」からですが、その原型となる医療行為は一万年以上前の中国新石器時代に魚の骨や鋭い石の先を患部に当てたり刺したりして治療行為を行なっていたとされています。 その中でも古代文化発展の地である大河流域で、南方の揚子江流域は肥沃な土地で草木に恵まれ、煎じ薬(漢方)治療が発展し、北の黄河流域では土地に恵まれなかったため針灸治療が発展していきました。 現在でも「刺絡」という針先でツボや悪い部分を一時的に出血させる治療法があるのですが、そのようなことを何千年も前に行なっていたなんてすごい発想力!

  • 日本への伝来

    日本への伝来は6世紀、飛鳥文化時代の欽明天皇(552年)の時、中国呉の国から朝鮮半島経由で日本に伝えられました。 薬書・明堂図などの鍼灸医書が輸入されたのが最初です。国内で律令制度が 整えられる中、鍼博士、鍼生といった官職が鍼灸を扱う医療職として設け られました。 日本現存最古の医学全書『医心方』は、平安時代に鍼博士の 地位にあった丹波康頼が当時までに舶来していた多くの中国の医学書をも とに編纂し、 984年に円融天皇に献上したものです。当時この書では病因の誘因を寒と熱:風と湿:飲と食の3要件が、五臓六腑の虚実、栄衛の通閉により疾病が起ると説明している。
    (『医心方』は12世紀の 写本が半井家の所有を経て1984年に国宝指定され、現在は東京国立博物 館に保存されています)。

    平安時代までは灸治療が中心で鍼は主として外科的な処置を行う際に用いられてきました。 当時の貴族の日記には灸治療のことがしばしば書かれています。その後、鎌倉・室町時代は 中国との宗教が盛んな時代で、東洋医学も仏教的医学に執着する学識ある僧侶の鍼灸医術者が多く、 生まれた時代です。今日その流れを続けるお灸寺も残っています。江戸初期には経穴に関する学術的な 研究者が数多く編纂されます。また元禄期には盲人の鍼師である杉山和一が、将軍綱吉の寵愛を受け、 その庇護のもとで盲人に対する鍼灸の教育制度を確立させていき、日本鍼灸の特徴である管鍼法 (鍼を管に入れた状態で刺入する方法)が編み出されました、この方法は、初心者でも痛みを与えずに 師入しやすいため、現在まで日本で用いられています。『奥の細道』(松尾芭蕉)でも養生の一環として 足の三里へのお灸が紹介されています。現在でも日本はお灸の治療が盛んですが、それはこの頃からの 伝統なのです。 また「弘法の灸」と呼ばれる、大きな灸痕が残る灸法も江戸時代から流行りだしたもので、 今も患者さんの中には背中にその灸痕が残っているご年配の方をお見受けします。 以前に、その状況を患者さんにお聞きしたら、「お寺の廊下で一列にみんな並んで、欄干に捕まって 歯を食いしばってお灸をしてもらった」「途中であまりに熱くて逃げ出す人もたくさんいたよ」とのことでした。 (今はそのようなお灸はしませんのでご安心ください)

    明治時代はに入ると、最初の鍼灸・漢方医学の冬の時代となりました。明治政府は鍼灸・漢方を非正当医学と位置づけ、西洋医学至上主義を導入します。 かろうじて鍼灸は営業資格としては残りましたがそれは主として視覚障害者を対象としたものでした。 それ以降、現在まで鍼灸、按摩=視覚障害者の方の仕事というイメージが残っているようです。 しかし、一方で灸治療は民間療法として広く普及し、昭和初期には医師の中で灸をテーマとした医学論文を発表する人も現れました。 自ら「足三里」への施灸で養生をし、104歳まで現役の医師として活躍し、1991年に108歳で亡くなった原志免太郎博士は、 灸に関する論文で初めて医学博士を取得した医師として有名です。

    戦争が終わると、日本を統治したGHQは鍼灸を禁止しようとしたため、 日本における鍼灸は再度存続の危機にみまわれました。しかし業界のGHQや厚生省への度重なる 陳情が功を奏して昭和22年12月に現在の「あん摩マッサージ指圧師、はり師きゅう師等に関する法律」の 原型である法律が制定させるに至りました。 その後1970年のアメリカのニクソン大統領中国訪問を機に中国の鍼麻酔が初めて世界に紹介され日本に おいても鍼のブームが起こります。
    1977年にはエンドルフィン、エンケファリンという脳内モルヒネ様物質が発見され、鍼刺激と中枢神経との 関わりについて研究が進められ、今や副作用のない安全な医療として世界的な認知を得ています。 また一方で、途上国で容易にもちいられることが出来る効果的な医療技術としてWHOの注目を浴び、 1979年には鍼灸治療の適応疾患として43疾患が発表されました。その後も鍼灸医学の国際的な広がりを受けて、 用語の標準化が1980年代のはじめからWHO太平洋事務局を中心として始まりました。その結果、361の径穴、 48の奇穴および頭鍼に関する用語などが定められ、1989年にWHOのジュネーブ会議にて正式に承認されています。 そして、1997年、米国国立衛生研究所(NIH)より、鍼灸に関する画期的なパネル声明を発表されます。 その内容はというと、手術後の吐き気、妊娠時のつわり、歯科手術後の痛みの軽減など、一部の病態、 疾患について、鍼治療の効果について認める声明が発表され、これが大きな反響を呼び、 アメリカだけでなく、ヨーロッパにおいても鍼の臨床研究が盛んになります。ドイツでも大きな反響を呼び、 ドイツでも大規模な臨床研究が実施され、腰痛などに対する鍼治療に対し、保険適応されることが決まった のはとても画期的な進展です。

    WHO西太平洋事務局(Western Pacific Regional Office : WPRO)は、2003年から伝統医学の国際標準化プロジェクトの一環として、鍼治療で用いるツボ(経穴)の位置の標準化を行いました。日本、中国、韓国の代表者による6回に及ぶ非公式協議の末にWHOの公式な経穴位置がこの年に定められました。
    この他にも漢方領域も含む伝統医学用語の標準化など、国際的な標準化の動きが現在も進められています。